庭のこと(本館ブログ11月号)

正門前のニシキギ、古民家が囲む八重桜の並木、三楽亭奥のモミジ、藤棚脇の大イチョウ、大玄関前のドウダンツツジ、銅門(あかもん)とそこから続く塀沿いのモミジと、10月中旬から11月下旬にかけて次々と染め上がっていく秋の伊藤邸。そこに生活する人とそこを訪れる人が楽しめるよう、いつも邸内のどこかに盛りの花木がある―伊藤邸に関わらず公開されている邸宅庭園の楽しさの一つだと思います。
さて、話は伊藤邸に戻り、皆さんに最もよく知られている大広間から眺めるあの池泉回遊式庭園は邸内の他の庭とは一線を画すと言わざるを得ません。楽しむというより対峙するという表現がふさわしいのではないでしょうか。
今年の秋も大勢のお客様がご来館下さいました。11月23日~26日の4日間行った紅葉ライトアップでは足元の悪い中にも関わらず、仕事帰りに立ち寄って下さったお客様もいらっしゃいました。ご来場の皆様、誠にありがとうございました。また各日20分ずつというわずかな時間で
すが、庭園の一部と茶室の一部を公開し(建物保護の観点からこのたび入室はご遠慮いただきました)、普段の説明では語れないこの庭の成り立ちや見どころをご紹介致しました。ここではその一部分、少し補足も含めてご紹介したいと思います。

この庭は7代文吉ー北方文化博物館の初代館長になるわけですが―の依頼により、昭和31(1956)年~33(1958)年※1 にかけて、庭匠田中泰阿弥(たなか たいあみ)が作庭しました。(※1すでに昭和28年から新発田市にある同財団で管理する清水園の庭園修復にかかっていたこともあり、伊藤邸の作庭準備を並行して進められていたとも考えられます。)
5代文吉(天保14(1843)年~明治24(1891)年)時代に建てられた大広間ですが、当時の庭は大地主の風格を漂わせるもまだ池のない平庭でした。この邸宅によりふさわしい庭が必要と考えた7代文吉は、昭和7(1932)年~8(1933)年、新潟県柏崎市(旧高柳町)にある庭「貞観園(ていかんえん)」の修復を行っていた庭師田中泰次(たなか たいじ)※2 を紹介され、この人物に新発田清水園の庭園修復と、沢海伊藤邸の庭園作庭を依頼します。(※2 のちの田中泰阿弥。)貞観園は大庄屋村山家の庭園で、村山家は7代文吉によって母・真砂(まさご/まさ)の実家でもありました。一方、田中泰次は新潟県柏崎市(旧刈羽郡中鯖石村)に生まれ、庭師であった兄・米作(よねさく)について仕事を手伝った後、京都へ出て、名だたる庭師に弟子入りし修行を積みました。京都では庭だけでなく、茶、書、謡曲、俳句などをどれも深く学び、特に茶の湯に関しては庭の仕事と並び立つほどに道を極めました。新潟や京都の古い庭に接して得た言わば「庭を読む目」、また茶の湯を通して得た建築(茶室)と庭の関係性への理解などは、泰阿弥の作庭に大きな影響を与えるものだったと考えられます。そして昭和4(1929)年および6(1931)年。まだ30代初めにして、それぞれ「洗月泉」および「相君泉」いずれも銀閣寺庭園の埋もれていた石組みを発見、発掘、修復したことで全国に名を知られ、当時庭園学者として最も権威のあった龍居松之助(たつい まつのすけ)の知遇を得、その後、龍居の紹介で各地の寺院や指定庭園の修復を頼まれるようになった「天才」と呼ばれる庭匠です。昭和26(1951)年、新潟県関川村の渡邉邸の庭園修復を終え、その庭の国指定調査に来た文化財専門保護委員の田山方南(たやま ほうなん)によって、庭の道に生きる姿勢から「泰阿弥」と名乗ることを勧められ、その名は今日に至っています。

沢海伊藤邸の作庭に関しては、経済的な面から伊藤家内部から反対もあったと言われ、また戦争という時勢を背景に、人手や資金も苦しかったとみられ、貞観園での出会いから作庭開始までには約20年を費やしています。その間、揺るぐことのなかった7代文吉の泰阿弥への期待は、いつしか信頼へと変化していったと想像します。銀閣寺での一連の功績をはじめすでに認められている仕事の数々だけでなく、戦争を境にうねるように変化していく日本を舞台に、郷里を同じ新潟に持ち、同じ時代を生き抜いていこうとする者どうしの仲間意識のようなものが互いの中に芽生えていたのではないかと思います。7代伊藤文吉―明治29年生まれ、田中泰阿弥―明治31年生まれ、さらには田山方南ー明治36年生まれ。急速に失われつつある日本の文化を残す舞台で生きる者どうし、同志としての信頼感が築かれていったように思われます。それは泰阿弥が兄・米作に宛てた作庭にふれる書簡(庭石の買い集めや運搬について等)での折々や、庭園完成を目前に急逝した7代文吉に対する泰阿弥の心中を想って田山方南が泰阿弥へ送った書簡からも伺い知ることができます。

初心を曲げず、田中泰阿弥に作庭を託した7代文吉のその判断は、結果として今誰もが胸を張って正しかったと言えるものです。伊藤家の遺構保存活用を担う北方文化博物館にとってなくてはならない究極の財産です。そして作庭の背景を知ることが伊藤家の歴史を知るための手がかりともなる大切な博物館資料です。この庭は田中泰阿弥という庭師の代表的大作のひとつとして現在に残り、全国海外から訪れる人々を前にして今もなおいっそう堂々とした居ずまいを見せ続けています。作庭に関わった人々を想うと、この庭は対峙した者の心の中にこそ日本人が備え持つ美しさを湧き起こさせる、そんな庭であるような気がします。

具体的な庭園の見どころ(築山、滝組、州浜、池といった構成要素、各茶室とその周囲の庭、池泉回遊式の中で据えられた石、灯籠等々…)についてはまたあらためて機会にご紹介したいと思います!

七代伊藤文吉 明治29(1896)~昭和33(1958)年
田中 泰阿弥 明治31(1898)~昭和53(1978)年
田山 方南  明治36(1903)~昭和55(1980)年

参考文献: 豪農の館―地主七代ー 角田夏夫(財団法人北方文化博物館)
      孤高の庭匠 田中泰阿弥 (田中泰阿弥研究会)

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本館ブログ担当/こでまり


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by hoppo_bunka | 2017-12-19 20:46 | 本館・その他 | Comments(0)

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