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終わりから見る

 
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 悲しいことに、単純な計算ミスをしょっちゅうするようになりました。忘れる事も多くなり、覚えも悪く、体も以前より動かなくなったりと、人に迷惑をかけたり、悲しいことだらけです。こんな話を聞いても、全く覚えがないと感じられるお客様が、羨ましいです。私も自分がこうなるまでは、何であんな事ができないんだろうと、そんな時、冷めた目で見たりしていましたから。

 子どもの頃は成長するにつれ、できることが増え、何かに出会う喜びがありました。今は老いを迎え、できなくなることが増え、別れの悲しさをたくさん味わうようになっています。
 私の年でこうなのですから、米寿を迎えた二人の母は、なおさら大変だと思います。忘れる、できない、動けないの毎日で、それがどんどん増えていくのですから。
 仕方がないことなのに、周りから叱られたり、イライラされたり、、、私自身も、自分の事を棚に上げて、時々義母に「これをやっちゃだめって言ったでしょ。」なんて怒ってしまい、またひどいことを言ってしまったと後悔します。自分ではどうしようもないことを、責められ続けるなんて、自分がされたらとっても嫌なはずなのに。義母が衰え物忘れがひどくなっていく悲しみは、私以上に一番本人が感じているはずなのに。

「忘れてもかまわないよ。私が覚えているから。」と、失敗した時に、どうして慰めの言葉がかけられず、責めてしまうのだろうと、悔やんでばかりです。ストレスは人間をバカにする。責める言葉がパッと飛び出すのは、たいてい自分が疲れていて、心に余裕がない時です。
 
 「お年寄りを敬いなさい。」という言葉は、以前は分かってはいても、それほど理解していなかったのだと思います。お年寄りは、手がかかる、お世話をしなければならないことが多いと思っていたからです。でも今は、自分も迷惑をかけることが増えるに従って、できないことや苦しいこと、悲しいこと、失っていくものが多いのに、それらを抱えながら生き続けているお年寄りは、自分よりはるかに我慢強く、尊敬に値する存在なのだとわかるようになりました。

 手がかかるものに対して、どれだけ寛容で、アプローチの努力を続けられるかは、その社会、構成メンバーの成熟度によると思います。
人間は感情の生き物だから、頭ではわかっていても、どうにもできないことが時々襲い掛かってきます。それを鎮めるのは、時に人生の経験値だったり、風景だったり、誰かの言葉だったり。最終的に自分の感情は自分でコントロールして、人に人生を左右されないようにしていかなければなりません。

 先日、城下町まち歩き【清水谷編】に参加し、石泉荘の方から清水園に向かって歩を進め、普段と逆方向で足軽長屋の前を通りました。
園の外と中、向かう方向の違いだけなのに、いつも見ている園の全く別の顔が見られ、驚きました。いつも見ている園より、とっても大きく感じられました。新発田川にせりだした木々の新緑も美しく、郊外に出たような気分になりました。物事を多角的にとらえることの大切さは理解しているつもりでしたが、向きを変えたり、道から外れたりすることで、こんなに違うのかと実感しました。
 
 清水園自体は、どちらの向きから見ようともっている美しさに変わりはないのですが、見ている私の視点が限られていたために、知っているつもりになっていて、本質をとらえることができていませんでした。
同じように、人間の本質も、勢い盛んに伸びて行く方向ばかりではなく、逆方向から見ていくことによって、見えてくるものがあるのだと感じました。できなくなり、失うと思うのではなく、できないことも受け入れられる自分になる、あるいはそういうことに耐えられる人がいる、と考えようと。
 空に伸びる木立が示すように、老いもまた人生の道しるべなのだと思いました。
 老いていくこと、老いた人に対して、尊厳をもって接していくことができる人になりたいと思いました。
お庭からは教えていただくことがたくさんあります。学問の最初は、人間がいかに愚かで、しかし素晴らしいかを知ることだというけれど、風雪に耐え、春秋を経た木々もお年寄りも、学びの師だと思います。

 清水園/ひろ 



 

by hoppo_bunka | 2021-05-17 16:13 | 清水園 | Comments(0)

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