お向かいのお宅の離れて暮らしている長男の方から、亡くなられたお母さまの生涯をまとめたので読んでもらえたら嬉しいと1冊の冊子が送られてきました。お母さまのお名前の一代記です。90歳を超えてお亡くなりになりましたが、近所では最高齢でした。見かけからは想像ができなかったのですが、アイススケートが趣味で、新潟市でもサークルを立ち上げるなど、その道では先駆者だったそうです。新潟でなぜスケートと、ずっと不思議に思っていましたが、その一代記を読んで、大連で働いていらした時に覚えたということがわかり、納得しました。
戦争や引き揚げなども含めて、それまで苦労されたことを読み、お人柄やお話されていたことなどを思い出しました。人の人生は、それぞれが1冊の本になるドラマがある、有名人のような業績が無くても、一人一人みんながドラマを持っている、と思いました。特に戦争を経験された方は食べること、住む家、身内の死など、本当にこの時代からは考えられない激動の人生を生きてこられました。
読んでいて亡くなった祖母の事が浮かんできました。祖母も夫が37歳で死んでしまい、3人の子どもを抱えて職もなく、といったさまざまなドラマの中を生き抜いてきた人でした。母親として頑張るというよりも、親戚や成長した父を頼り、今思っても、どうやって生きてきたのだろうと思いますが、孫の私の目から見ても、とにかく父を心の支えとして、最優先し、父の弟達とは、別扱いをしているように見えました。
「長男長女は家の跡継ぎ」という考えが常識だったような時代の人ですから当然なのでしょうけれど、私の母はそんな祖母を見て、「私は絶対子どもは平等に育てる。」と言っていたのを思い出します。父も私たち4人の子どもに対して、長女である姉には、「お前はうちの跡継ぎで長女だから特別だ。」と言っていましたので、母はそれに反発していたのかもしれません。
伊藤文吉回想録『わが思い出は錆びず』の中にも、兄弟間の差について似たようなことが書かれていて、「格差は差別ではなく、区別である」、とありました。長男より高いものは次男は食べず、次男より高いものは三男は食べない。下着や教科書、ノートなどは、下のものは皆上のもののお下がりであったという箇所を読んで、祖母が父にだけは果物を用意して、一緒に休憩している弟の叔父には出さないことを、ずっと見ていて嫌だなぁ、同じ自分の子どもなのに何で差をつけるのかなぁと思っていましたが、それが当たり前で、弟にも用意するなど思いもしなかったのだと思いました。
父と3番目の弟とは一緒に働いていましたが、2番目の弟は訳あって早くから家を離れることとなり、交流もほとんどないまま年月が過ぎました。おばあちゃんにとっては、2番目の子どもは、もう、いないも同然なんだろうな、と思うくらい、話に上る事さえ全くありませんでした。自分の子どもなのに、どうしているか気にならないのかと思いました。だからその叔父が亡くなったということで、位牌として我が家に届けられた日から数日間の祖母の姿は、異様に見えました。母も、「お母さまのあの顔は忘れられない。」と言っていました。
お位牌を仏壇にあげて、深々と頭を下げ、じっとしている祖母を思い出します。
祖母が亡くなり遺品を整理していた時、箪笥の引き出しの中にあるお財布の中からいくつも、ポチ袋があるのを見つけました。中にはお札が数枚入っていて、表には2番目の子どもである叔父の名が書いてあり、「○○ちゃん、〇歳のお誕生日おめでとうございます。ご多幸を心からお祈りします。」と書かれてありました。それがいくつもありました。用意しながら手渡すことができないまま、先に死んでしまった次男への誕生日のお祝いでした。
その時初めて、私が見て取れなかった祖母の心の内を知りました。ポチ袋を見て涙が流れました。
生きていくことが精一杯で、やりたくてもできないこと、してあげたくてもできないことが人間にはたくさんあります。表面には出て来ない苦労や思いなどは、身内ですら時に誤解をよんだり、隔てを作ったりします。ごめんね、ごめんね、って心の中で唱えることがどの人にもあるのではないかと思うようになりました。「ご多幸をお祈りします。」と言う言葉は、自分ができない分を何かに託しながら、祈るように願い届ける言葉なのだと思いました。
後悔していることが、私にはたくさんあります。届けられなかった思いも、できなかった申し訳なさも。忘れたくても忘れることはできない過失も。胸を締め付ける哀しみが襲ってくる時は、お庭の中に入っていきます。一周は心のリセットの一周でもあります。
自分を超える大いなるものが身近にあることは本当にありがたいことだと思っています。何も言わずに側にいるだけで癒されるお庭は、やはり年月を乗り越えてきたドラマをもつ大先輩です。
清水園/ひろ