新型コロナウィルスのワクチン接種の1回目をしてきました。大勢のお客様と接しますので、できるだけ早く受けて、自分もお客様に対しても安心できるようになりたいと願っていたので、予定より早く打つ事ができ嬉しかったです。
でも、打って2日目のお昼近くから腕がとっても痛くなり、不自由さと辛さを思い知りました。よく、「40肩、50肩」で手が上がらなくて大変などと聞いてはいましたが、そんな思いはしたことがなく、「大変ですね。」とは言ったものの、その大変さが全くわかっていませんでした。
服の脱ぎ着もうまくできない。洗濯物も干せない、取り込めない。鍋やシャンプーが取れない。髪も結べないなど。そして痛い。結局痛み止めを飲む始末で4日目にようやく腕がなんとか上がるようになりました。打った時はそんなでもなかったので、まさかこんなに苦しむとは思いもしませんでした。
ご近所に昨年末に救急車で運ばれ車椅子生活になった方がいらっしゃいます。スポーツマンで颯爽と自転車通勤をなさっていた自分より若い方が、急に歩けなくなって、介護生活を始められたのは、見ていてとってもショックでしたが、最近になって車椅子から杖を使って少しずつ車を乗り降りする姿が見られるようになりました。どれだけリハビリを頑張ってここまで動けるようになられたのだろうと、腕が上がらなくて苦しんだ数日の痛みを思い出しました。それがなかったら、きっと「すごい。」と思ったそのすごさを実感する度合いが違っていたと思います。
打ってから4日目の朝、久しぶりにどこも痛むことがなく、(それ以前から毎日悩まされていた股関節の痛みまで無くなっていました!)晴れ晴れとした気分になり、こんな気持ちが良いのは本当に久しぶりだと幸せをかみしめました。子どもの頃は、どこかが痛むなんてことはほとんどなかった。いつ頃から、あっちが痛い、こっちが痛いと体が動かし辛くなったのだろうと思った時、今日の状態は、本当に幸せなことなんだ、と気づきました。痛みを感じることなく生きていることを「幸せ」と意識することは普段あまりありません。「今日なんて、良いこと一つもなかった。」とぶつぶつ文句を言った日さえも、体は元気に動いていたと思います。こんな幸せに気付いていなかったなんて。
これから何かがっかりしたり悲しいことがあったりしても、こう考えれば気持ちを持ち直せるような気がしてきました。
先日『考えの整頓』(佐藤雅彦著)を読んで、(どれも心を刺激し考え方の変換を促すお話ばかり載っているのですが、その中でも特に)こうなりたい!と憧れるエッセイがありました。
洗濯物を干す時に、「ああああああああ!誰だよ、紙を出さなかったのは!!」と私が怒り心頭になる、洗濯槽にティッシュペーパーが入ったまま洗ってしまった時の筆者の対応が面白く、感動しました。さすが、ピタゴラスイッチの生みの親です。
筆者も最初は私と同じように、それぞれの衣類にまとわりついている小さな紙を見た瞬間、一日を台無しにされたようにがっかりするのですが、一つの衣類についた紙を落としている間に、ついている紙屑の量は、洗濯物の面積と関係性があるだろうか、それとも素材だろうかと思いつきます。そうなると、ゴミを取り除くという失敗から始まる嫌な作業が、研究対象に取り組むわくわくした作業に変わってきました。張り付いた薄っぺらの紙をはがす無意味だったはずの時間は、次はどのくらいだろうと予想をたて、検証する知的で有意義な楽しい時間に変わったというのです。
本には、Tシャツやパンツ、ハンカチなど洗濯槽の中に入っていた衣類の前に、そこに付いていた紙屑をまとめたものがペアで置かれ、その写真が載っていました。
そうか、1日を台無しになんかしない方法を自分で見つければいいんだ、失敗だって関心をもった瞬間に、それは面白い興味あることに変わるんだ、と思いました。筆者は失敗などの出来事には、通常取得できない情報や知見が含まれている可能性がある、と言っています。
「関心をもつ。」って、人を救い、幸せにつながることなんだと思います。毎日駆使している体でも、衣類にくっついた紙屑のような突然襲ってくる災難でも。
マザーテレサは「愛の反対は、憎しみではなく、無関心です。」と言っています。世界各地で未だに止まない紛争や、災害などに対しても、この言葉は当てはまると思います。興味、関心をもつことは、自分や他者を救い幸せにしていくことにつながっていくと感じました。
受付前の草取りをしていると、ふと、側に生えている苔の美しさに見とれてしまいます。この小さな生き物が苛酷な自然を生き抜くために身に着けた形状の美しさに心惹かれた時、命に向き合う時間の尊さと、そこに浸る幸せを感じました。蒸し暑さを吹き飛ばすかのように、杉苔の形で心がスパークしました。
今日は雨。降りしきる雨の中、命もほとばしるお庭です。
清水園/ひろ