先日総門の前で立ち止まり、一礼をされてからお入りになるお客様を見て、そういえば、祖母も同じように、どこかに入場する時は一礼して入っていたことを思い出しました。昇る朝日や沈む夕日など、自然のものに対しても、いつも深々と頭を下げていた姿を思い出します。
お辞儀といえば、育った家ではお客様を玄関でお迎え、お見送りする時、ひざまずいてお辞儀をしていました。嫁ぎ先は立ったままだったので、初めはとまどいました。ひとりだけ座ってしまうのも変かな?と思いながらもやはりずっとそうしています。
映画監督の小津安二郎監督は、カメラをセットの廊下に直に据え、自分は廊下に腹ばいになって、見上げるように撮っていたことで有名です。彼は人を見下げるようなことはしなかった。どんな人でも見上げるように撮る。そこに彼の人間愛があると言われます。自分の言動のどこかに、人を見下すようなことがないか、この話を知ってから考えるようになりました。
人は神仏や大自然、崇高な美しさなどに対すると敬虔な気持ちから額づきます。庭園セミナーでお庭を眺める時は、座って、と教えられてから、座るというひと手間伴う動作には、相手に対する敬いの気持ちが込められていると思うようになりました。遠くにある極楽浄土の世界に思いを馳せ眺めるのであれば尚更です。
料理をする時のエプロンと三角巾は、最近ずっとエプロンだけのことが多くなりました。でも、昔に戻ろうと今はどちらもしています。髪をとかす時にしていた化粧ケープは、大学生の時に友達が見て、「何、それ?」と驚かれました。その頃ですら珍しかった化粧ケープも最近見ることはあまりありません。髪の毛を落として辺りや服を汚さないように、という心配りを、面倒だと切り捨てて、自分もいつからしなくなっていたのだろうと改めて思います。
小学生の頃、家を出る時は、いつも祖母が玄関の外周りを掃き清めていました。両隣や向かいの方も、みんな同じように朝は自分の家の前の、そしてちょっと先までお掃除をなさっていたと思います。嫁ぎ先の母も毎朝していました。私はというと、いつも朝は時間との闘いのように飛び出していたものですから、一切義母にまかせっきりでした。義母があまり動かなくなってから、それは途切れてしまったのですが、最近長男が玄関と隣にある車庫の掃除をしてくれるようになりました。掃き清められている場所に出入りするのは気持ちが良いと、長男がしてくれるようになって、改めて感じました。ひと手間かけるって、愛情の表れなのだと思いました。
玄関はお客様を迎え入れる大切な場所であると同時に、毎日大切な家人が出入りする場所でもあります。そこをまず清めようと思ってくれた長男に教えられました。年を取ったから、楽だから、言い訳をしてやらなくなってきた多くのこと。一礼をして入られたお客様の美しい所作に心打たれたことで、少しずつ後回しにしたり、止めていたことを、またし始めています。体が動かなくなったら仕方ありませんが、まだ動くのであれば、ひと手間かけることを、もう一度身に付けたいと思います。
最初から美しいものと、年月を伴うにつれて美しくなっていくものがあります。年月を経るごとに、趣を増していくお庭のように、心を磨くことを、体の衰えを言い訳にして止めてはいけないと思いました。
入園券を差し上げた後に、「では、拝見させていただきます。」とお入りになるお客様を見て、言葉遣いや所作など、自分にはまだまだできないことがたくさんあると反省しました。学んだことの唯一の証は変わること。今、胸の内にあるこの気持ちがお客様に伝わるように所作に現れるようにと願っています。
紅葉し始めた木々を見に行こうと誘い合うかのようにカモが向かって行きました。燃える秋までもう少しの園内です。
清水園/ひろ