所蔵品展「北方文化博物館と佐渡」より、今回は初代宮田藍堂(みやたらんどう)の「班紫銅 花入れ」をご紹介します。
宮田藍堂(みやたらんどう)は安政3年(1856)沢根五十里(さわねいかり)という地域の商家・宮田兵助の長男として生れます。この土地は背後に鶴子銀山を持ち、その積み出し港として栄えた土地です。ここには佐渡の鋳金の基礎をつくる初代本間琢斎が居を構えていましたが、宮田藍堂は幼いころから本間琢斎のもとでその仕事ぶりを眺め、審美性を身に着けてゆきました。やがて本格的に琢斎に師事すると、4年間の修養で蝋型鋳金の技法を体得し、独立後は上京、明治27年に東京美術学校の助手となりました。やがて岡崎雪聲(おかざきせっせい)のもとで皇居外苑の楠公銅像の鋳造にあたったり、帝室技芸員鈴木長吉の蝋型製作の仕事を分担するなどしました。明治34年郷里に帰り自宅で工房を開設し、班紫銅の技術(はんしどう、この作品の色味も班紫銅です)、青銅色の技術に磨きをかけてゆきます。この年全国製産品博覧会に出品し三等賞。以後日英博覧会など精力的に出品しいつも入賞しました。弟子の育成にも熱心で、佐々木象堂はじめ多くの芸術家を世に送った功績を残します。大正8年逝去、行年63歳でした。
さて、この作品は幅21.4(両耳含26、口径14.4)×高さ61.1cmの花入れです(箱には「花筒」とありました)。初代藍堂の作品のなかでは大きな作品であるという特徴があります。北方文化博物館では長らくこれを2月から3月に享保雛を大型のショーケースで展示する際に、脇に置いて桃の花や菜の花を生ける花入れとして用いてきました。大きな空間や大きな展示に添えても遜色のない大きさであるということがわかります。これほどの大きさのものは一般家庭では使いづらいものです。初代藍堂は博覧会などの大きな展示会のために製作したものかもしれません。
沢根五十里のまちなみ。昭和30年頃、子供時代に工房をみた人の話によれば、道に面したガラス戸はすすけていて、その向こうにたくさんの作品が並んでいたのを見たという。牛が横たわっている作品などを見たとのこと。
沢根には佐渡おけさの歌詞にでてくる「沢根だんご」で有名な菓子店が二つあり(「しまや」と「池田菓子舗」)、佐渡土産の定番となっている。この「佐渡金山石臼最中」はしまや製で、金鉱石をすりつぶした石臼を模した最中など佐渡ならではのお菓子が多く売られている。