佐渡の風景は、どこへ行っても絵になる。
佐渡の情熱的な版画家・高橋信一(大正6~昭和61)は生徒たちに伝えた言葉です。
高橋信一。
旧両津市梅津出身。旧佐渡農業高校卒業後、青年学校教員養成所を経て教員になり、沢根の青年学校勤務時に版画に出会います。昭和24年両津高校に美術教員として赴任すると、生徒たちに伝えたのは「絵を描かなきゃ、だちかん(駄目だ)。」という姿勢です。とにかく描くんだ、身の回りのものを描いてゆけと。また良いところをみつければ、生徒を全力で褒めてその独創性を引き出したといいます。
高橋本人も昭和33年から5年連続で生徒が全国年賀状版画コンクールで最高賞を獲得し続け、両津高校を日本一の版画の高校として有名にさせました。
昭和34年(1959)日本版画協会展の恩地賞を受賞。昭和38年国画会の美術研修メンバーとして約3ヶ月欧州13カ国を歴訪。昭和44年に版画教育の功績により新潟日報文化賞受賞。昭和45年、新設された県展委員に委嘱され勲五等双光旭日章を受賞しています。
「佐渡を版画の島にする。美を見る目が育つことで人生が生き生きする。」
農民や漁師、主婦を対象とした講座を積極的に開き、生活や祭りなど身近な題材で故郷を描かせ続けました。版画を愛好する運動は島内に広まり(版画村運動)、ついに昭和59年相川の旧相川裁判所跡に、「佐渡版画村美術館」 をオープンさせました。この2年後に高橋は肺がんにより逝去しますが、高橋が育てた人物たちが意思を継ぎ同館はいまも各地の佐渡の版画文化を発信する場となり、全国の高校生の「はんが甲子園」の作品も展示されています。
一方、なぜ高橋信一は北方文化博物館の絵を版画にしているのでしょうか。
高橋の弟子に五泉市出身の版画家・式場庶謳子(しきばしょうこ)がいます。式場は高橋信一から版画を学んだことが、版画家としての出発点ですが、その式場は8代伊藤文吉夫人と親しい間柄でもあったため、高橋信一が北方文化博物館を訪れたことは式場氏が関係していたのではないかと推測しています。尚、これらの版画は売店で売られていたとは夫人談です。