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人間国宝・佐々木象堂の「鋳銅草文花瓶」~「北方文化博物館と佐渡」より⑤

鋳銅草文花瓶


佐々木象堂、という人の印象は、まるで仙人のような髭と、何と言っても丸く厚いレンズの眼鏡でしょう。残っている写真はほとんどこれです。しかし資料を追ってゆくと青年時代の写真と出会うことができます。短髪でやはり丸い眼鏡をしているのですが凛々しく、これから大事をなさんとする男子の表情が印象的です。それは佐々木象堂という芸術に向い合う誠実な人間性を表しているかのようでした。
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本名は「文蔵」。貧しい家に生まれ、河原田本町の質屋・中山和吉(なかやまわきち)商店へ丁稚奉公し、風呂焚きや薪運び、庭はき、雑巾がけをしながら高等小学校へ通わせてもらったといいます。教科書を買う金もなく、借りた教科書を書き写させてもらいながら勉強に励みました(毛筆の字は整い、地図も丁寧な描写だったという)。高等小学校を二等の成績で卒業、学業篤志品行方正であると賞を受けるなど、人物の誠実さや芸術家の原点がこの時代にあると考えられるでしょう。


文蔵は中山家の蔵に収められた古書画を眺めるなかで、自らも画家の道を志すようになります。中山和吉は実兄である鋳物師・初代宮田藍堂(らんどう)に相談すると、彼も文蔵の才を知っており、京都四条派の野村文挙に紹介状をしたためてあげます。文蔵も切々たる手紙を送り、晴れて文挙の門を叩いたのですが、少し経ち、野村文挙は文蔵の近眼を理由に画家の道は難しいと言い渡してしまいました。落胆して佐渡へ帰った文蔵に救いの手を差し伸べたのも、宮田藍堂でした。「そんなら、おれんところへ連れてこいさ。絵も鋳物も芸術の道だっちゃ。」藍堂は元東京美術学校の助手もつとめ、既に名をはせた蝋型鋳金家です。そのとき文蔵の年齢は戸籍年齢18歳(実は数え年20歳)。藍堂の門下に入り、鋳金の道を歩むことを決意しました。


いつから文蔵が「象堂」と名乗ったのかいくつか説がありますが、昭和38年の高尾亮一著「佐佐木象堂」(白玉書房)によれば、藍堂に弟子入りしてからとあります。当時のことを藍堂の娘リサが回顧するに、象堂はいつも藍堂の傍らにあり、まじめに蠟(ろう)を伸ばしたり、その蠟を中子(なかご)に地張りするなどまじめに精進し、酒も煙草も口にしなかった。ただ大変な読書家で、仕事の合間にはいつも樋口一葉などの小説を置いて、手が空けば本にむさぼりついていた。書物にわからないことがあれば仕事中でも辞書を引いたり、また火鉢の灰のうえに自作の短歌を記し推敲を繰り返していた、と。


蠟型鋳金は作り手の肌の感覚がものをいうと、三代目宮田藍堂は述べています。生き物のような蝋にぬくもりを与える技術は失敗の許されない緊張の中で師匠と弟子のあうんの呼吸が必要になりますが、象堂は藍堂からの信頼厚く、藍堂のそばで技術を身につけてゆきました。5年の年季とお礼奉公1年を経て、明治40525歳にしてついに独立に至り河原田の自宅に工房を構えます。また、その2か月後、象堂にとって重要な出来事であるキリスト教の洗礼も受けています。

3年後、河原田でクリスマスのお祝いの席があり、長岡女子師範学校から小学校教師になった羽生タケという女性が出席していますが、象堂は彼女に恋をし、タケもまた誠実な文蔵に惹かれていきました。やがて象堂から羽生家へ結婚を申し込むのですが、海の物とも山の物ともつかぬ者に娘はやれぬと断られてしまいました。


高尾亮一の著書はここで象堂が上京する、という展開をみせます。

象堂はかねてから志であった、芸術の道を究めるために東京で創作活動をするという信念を実行に移します。宮田藍堂から紹介状をもらい、東京美術学校で蝋型鋳金を教える大島如雲を助ける仕事を得ました。そのなかで製作した作品が秋の日本美術展で銅賞(宮内庁買い上げ)をとるのです。大正3年にはタケも貧しい象堂を助けよう上京し、二人は教会で結婚式を挙げます。タケは佐渡を出る前の晩、両親から「お前はこの先どうなるか貧しい人間を選ぶが、うまくゆかなかったらどうする気か」と問われ「どうするかわからないが、そんなひとが好きなのだから、そのひとが花実を結ばすよう努めます。それで実が結ばなくても私の人生に後悔はありません」と述べたといいます。伴侶を得た象堂の作品は次々と賞を獲得し、大正6年と8年の第5回・第7回農展でともに二等賞(一等賞のない中で事実上の最高賞で宮内庁買い上げ)、大正7年には東京鋳金会展で最高金賞、9年には同展でも銀賞と、順調な受賞が続きました。


独立後の象堂は、自らの芸術を高める意欲を一層燃え上がらせてゆく時代でした。当時の大正中期から昭和初期は工芸界も時代のうねりの中にありました。象堂は、鋳金家高村豊周が組織した、新しい近代工芸を強く標榜するグループ「无型(むけい)」に加わりつつ、象堂独自のスタンスで伝統に即しつつ、伝統から止揚した先にある新しい造形の美、例えば幾何形態の作品へ挑んでゆきます。

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本作の花瓶ですが、同様の草文を用いた「ペン入れ」が「佐々木象堂作品集」(新潟日報社)に大正15年作品として紹介されており、同じ頃の作風と推定するものです。装飾性を抑え、抽象的な草文だけのシンプルな機能美におさめています。「无型」に加わる以前の「濟々會」からの作風でモダンを意識した当時の作風が表れているといえるでしょう。しかし浮き出た草文の上品さと銅の質感がかえって際立ち、シンプルさのなかに蝋型鋳金の技術の高さをみてとれます。
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昭和4年「无型」から離れた象堂はモダンとの出会いで得た成果を吸収しつつ、伝統様式に回帰し始めます。昭和19年、疎開のため佐渡へ帰郷。戦後の銅不足もあり、昭和22年に真野町新町に真野陶苑を開きました。昭和23年頃から鋳金を再開。佐渡という風土のなかで「鋳金寒山立象置物」「鋳銅臥牛置物」「鋳銅瑞禽置物」「鋳銅狸伏番爐」などで意欲的な出品を繰り返します。そして昭和33年伝統工芸展への出品を勧められ「瑞鳥」で最高賞を受賞。35年に国の重要無形文化財蝋型鋳金技術保持者に認定されます。36年にその生涯を終えるが、昭和41年皇居新宮殿の棟飾りに「瑞鳥」が拡大鋳造され取り付けられることになり、その仕上げ・着色指導を行ったのは弟子の池田逸堂でした。

人間国宝に認定されたころ、筆者の父は当時河原田小学校に通っており、全校を挙げて祝った覚えがあると述回しています。

by hoppo_bunka | 2021-10-23 16:20 | 本館の展示案内 | Comments(0)

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