2021年 10月 23日
人間国宝・佐々木象堂の「鋳銅草文花瓶」~「北方文化博物館と佐渡」より⑤
文蔵は中山家の蔵に収められた古書画を眺めるなかで、自らも画家の道を志すようになります。中山和吉は実兄である鋳物師・初代宮田藍堂(らんどう)に相談すると、彼も文蔵の才を知っており、京都四条派の野村文挙に紹介状をしたためてあげます。文蔵も切々たる手紙を送り、晴れて文挙の門を叩いたのですが、少し経ち、野村文挙は文蔵の近眼を理由に画家の道は難しいと言い渡してしまいました。落胆して佐渡へ帰った文蔵に救いの手を差し伸べたのも、宮田藍堂でした。「そんなら、おれんところへ連れてこいさ。絵も鋳物も芸術の道だっちゃ。」藍堂は元東京美術学校の助手もつとめ、既に名をはせた蝋型鋳金家です。そのとき文蔵の年齢は戸籍年齢18歳(実は数え年20歳)。藍堂の門下に入り、鋳金の道を歩むことを決意しました。
いつから文蔵が「象堂」と名乗ったのかいくつか説がありますが、昭和38年の高尾亮一著「佐佐木象堂」(白玉書房)によれば、藍堂に弟子入りしてからとあります。当時のことを藍堂の娘リサが回顧するに、象堂はいつも藍堂の傍らにあり、まじめに蠟(ろう)を伸ばしたり、その蠟を中子(なかご)に地張りするなどまじめに精進し、酒も煙草も口にしなかった。ただ大変な読書家で、仕事の合間にはいつも樋口一葉などの小説を置いて、手が空けば本にむさぼりついていた。書物にわからないことがあれば仕事中でも辞書を引いたり、また火鉢の灰のうえに自作の短歌を記し推敲を繰り返していた、と。
蠟型鋳金は作り手の肌の感覚がものをいうと、三代目宮田藍堂は述べています。生き物のような蝋にぬくもりを与える技術は失敗の許されない緊張の中で師匠と弟子のあうんの呼吸が必要になりますが、象堂は藍堂からの信頼厚く、藍堂のそばで技術を身につけてゆきました。5年の年季とお礼奉公1年を経て、明治40年5月25歳にしてついに独立に至り河原田の自宅に工房を構えます。また、その2か月後、象堂にとって重要な出来事であるキリスト教の洗礼も受けています。
3年後、河原田でクリスマスのお祝いの席があり、長岡女子師範学校から小学校教師になった羽生タケという女性が出席していますが、象堂は彼女に恋をし、タケもまた誠実な文蔵に惹かれていきました。やがて象堂から羽生家へ結婚を申し込むのですが、海の物とも山の物ともつかぬ者に娘はやれぬと断られてしまいました。
高尾亮一の著書はここで象堂が上京する、という展開をみせます。
象堂はかねてから志であった、芸術の道を究めるために東京で創作活動をするという信念を実行に移します。宮田藍堂から紹介状をもらい、東京美術学校で蝋型鋳金を教える大島如雲を助ける仕事を得ました。そのなかで製作した作品が秋の日本美術展で銅賞(宮内庁買い上げ)をとるのです。大正3年にはタケも貧しい象堂を助けよう上京し、二人は教会で結婚式を挙げます。タケは佐渡を出る前の晩、両親から「お前はこの先どうなるか貧しい人間を選ぶが、うまくゆかなかったらどうする気か」と問われ「どうするかわからないが、そんなひとが好きなのだから、そのひとが花実を結ばすよう努めます。それで実が結ばなくても私の人生に後悔はありません」と述べたといいます。伴侶を得た象堂の作品は次々と賞を獲得し、大正6年と8年の第5回・第7回農展でともに二等賞(一等賞のない中で事実上の最高賞で宮内庁買い上げ)、大正7年には東京鋳金会展で最高金賞、9年には同展でも銀賞と、順調な受賞が続きました。
独立後の象堂は、自らの芸術を高める意欲を一層燃え上がらせてゆく時代でした。当時の大正中期から昭和初期は工芸界も時代のうねりの中にありました。象堂は、鋳金家高村豊周が組織した、新しい近代工芸を強く標榜するグループ「无型(むけい)」に加わりつつ、象堂独自のスタンスで伝統に即しつつ、伝統から止揚した先にある新しい造形の美、例えば幾何形態の作品へ挑んでゆきます。
by hoppo_bunka | 2021-10-23 16:20 | 本館の展示案内 | Comments(0)