
4月7日(日)、麗らかな陽気の中、大倉茶会が行われました。
訪れる方も、おもてなしをされる方も、心を配り、この一日を大切に迎えられたということが伝わってくる、そんな1日となりました。
普段は閉められている同仁斎も開け放たれ、
武家屋敷も点心席に形を変えてお客様をお迎えしました。

その日は外国人のお客様も大勢来園されたので、私は足軽長屋への誘導を兼ねて外にいました。外で春の陽射しを浴びていると、こんな風に、じっと春の光景の中にいるのは、いつ以来だろうと思いました。暖かく、気持ち良く、マスクを外して伸びていく木々の新芽を眺めていました。
お茶会を終えられた方々は、皆、楽しそうにお話をされながら帰っていかれました。その中に、コロナ禍をきっかけに、会えなくなっていた知人がいて、「清水園でお茶会があったら、全部教えてね。また会おうね。」と言って約束を交わしました。
主催者の方は、気配りを求められることが多く、疲れも伴うお茶会だと思いますが、私はお茶会の雰囲気が大好きです。今日一日を晴れの日としようという心配りが、辺りに満ち溢れて美しく行き届いているからです。お茶室も使われる状態が本来の在り方ですから。今回は使用されませんでしたが、夕佳亭の脇の桜も、合わせるかのように満開となり、お客様をお迎えしていました。

1日置いて今日9日は、朝から冷たい雨風が吹き付けています。昨日の暑さとは打って変わって、寒々とした陰りのある一日となりました。7日の麗らかな記憶がまだ残っていたものですから、外で作業をしていた職員に、「雨の中の作業は大変ですね。」と、恨めしいような言い方で話しかけました。
すると、「でも、この雨できっと草木は喜んでいるから。」と応えが返ってきました。「かぴかぴになっていましたからねぇ。」
その言葉を聞いた途端に、雨に打ちひしがれて震えているように見えていた木々が、雨を受け止め、体中に迸しらせて、生き返っているように見えました。人は、自分が冷たい雨に打たれて濡れていても、自然と共に生きていると、そういう感じ方ができるのだ、と思いました。
「観えるとは、観たものと、観る人の何かが結びつくこと」と料理研究家の土井善晴先生がおっしゃっていたのは、こういう事なのだ、と感じました。
昨日私の目に見えたやすらぎ提の美しいソメイヨシノも、23度の暑さの中、実は水に飢えていたのかもしれない。
草木の本来の在り方を、観えるようになりたい、と思いました。人間に都合のよい自然ではなく、本来の自然を愛でることができるように。
もっと、もっと、お庭の中に入って、感じ取れるようにならなくてはいけないな、と謝る気持ちで降りしきる雨をみつめています。
清水園/ひろ