
先日、本館で、視覚障害のあるお客様を御案内しました。弱視の方、全盲の方など、お一人お一人で見え方に違いはあったのですが、どうやって御案内をすれば、建物の様子やお庭の趣、展示品などをお伝えすることができるか、悩みました。残念ながら、触って頂けるものもあまりありません。お客様全体が、とっても明るい方がたで、楽しんでいらっしゃったのに救われましたが、いかに普段、物をきちんと見ていないかということを考えさせられました。
建物の雰囲気は、大広間の縁側を一周された際に、感じ取られたり、柱の木目や床框の大きさなどは触って確かめることができたのかもしれません。吹き亘る風の中に、お庭の木々の葉の香を感じ取っていらっしゃったかもしれないし、滝の流れ落ちる音から、水の流れを想像されていたかもしれません。
視覚以外の感覚を総動員されて鑑賞されていらっしゃるのですから、私が感じ取れないことをたくさん感じていらしたかもしれません。だからこそ、自分が見えてお客様には見えない美しさに関しては、こちらからお伝えしなければならないはずなのに、それをきちんとお伝えする言葉を私は持っていないことに気付きました。
通しの丸桁は、「向こうの白い壁が先端で、こちらの白い壁が幹で30mある1本の杉の木です。」とお伝えしたあと、廊下をずっと歩いていただければ、その長さを想像していただくことはできますが、ケースに入った鍋島のお皿の美しさは言葉で表さなければ伝えられません。
言葉を媒介にして、人は想像力で美しい物を味わうことができるのに、私にはそれをお伝えする力、言葉がありませんでした。
先日新潟市美術館に「開館40周年記念 ほぼせんてんてん、」を見に行ってきました。そこで一番印象に残ったのは、担当した展示に付けられた学芸員さんのキャプションでした。どんな点に特徴や価値、見所があるのかを、それぞれの方が解説をされていましたが、それを読むと作品の価値と学芸員さんの作品への思い入れが伝わってきて、ものを言うことができない展示物や制作者の思いを代弁して伝えていると感じました。
芸術作品は本来、言葉に表せないものを作品で表現するのだから、解説など行うことはできないのだ、という考えも、もちろんあるとは思います。作家の魂を削るように全身全霊を込めて造られた作品を表現するには、生半可な取り組みで選んだ言葉では本質に迫ることはできますまい。
今朝の清水園の静謐な佇まいを、どうしたら目の見えないお客様にもお伝えすることができるだろう。本館の展示物も清水園の趣も、新潟市美術館の学芸員の方のように、価値の本質に迫る御案内ができる努力を続けていかなければと思いました。
そんなことを思いながらも久しぶりに歩いた今朝の清水園のお庭は、私のあれこれと考え悩む心をどこかに連れ去っていってくれました。
『今日は死ぬのにもってこいの日』に書かれたアメリカインディアンの教えと言われる日は、きっとこんな日のことを言うのだろうな、と思う秋のひと日がありました。
清水園/ひろ