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必要とされないもの

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 レポートを書く必要があり、県立自然科学館に行ってきました。20日にも実は行ったのですが、1日かけても見終えることができなくて、再び出かけたのです。でも、午後からしか時間が作れなかったため、今回も時間が足りず見終えることはできませんでした。
 子どもたちが小さい時は何度か行ったことがありましたが、その頃は、こんなに面白いとあちこち見ようとしませんでした。もともと私は歴史や文学には興味があり好きでしたが、科学や化学、数学は苦手で、かろうじて生物や実験には関心を持てても、他は全く面白さを感じていませんでした。高校生の頃は物理など、全く理解できず、それなのに理系しか選択することを許されなかったので、とにかく苦痛でした。

 それなのに、こんなに楽しいなんて、びっくりしました。理論がわからなくても、見ていてどれも面白かったのです。宇宙に関する映像など、見ていると引き込まれてしまい、そうこうしているうちに、どんどん時間は過ぎていきます。途中で、展示をこのように見続けていたら、またしても、全部見終えることはできない、と見るのをあきらめましたが、10代の頃にこの面白さに気付いていたら、どんなに勉強が楽しかったことだろうと思いました。

 今回とっても印象に残ったのは、キツツキのエサの捕り方を見たことです。木に穴を掘って、その奥の虫を食べるということは知っていましたが、舌があんなに細長く伸びて、しかも突起がついて粘り気があり獲物を捕らえやすくなっているということを知りませんでした。頭の中で理解していることと、事物を見て理解することの大きな違いを体験しました。土星には環があるということは習っていても、実際に望遠鏡の先に見えた小さな小さな土星に確かに環が見えた時の感動と同じくらい、すごいと思いました。

 鳥の舌にそんな秘密があるなんて。生き物は皆それぞれに、それが最も生き残るために必然とする形態で存在しているということを改めて感じました。

清水園の池のカモも、観察するときっと地球から与えられた生きるための形態があるに違いありません。そしてそれは動物だけではなく、植物にも。

 科学館の展示パネルの解説を読むうちに、これは現段階で分かっている事とか、まだ謎は解明されていません、と書いてあることがたくさんありました。たった一つの展示にも、さまざまな解釈があり、違った見方があります。インターネット検索が気軽にできるようになり、最初にヒットした情報を鵜呑みにしがちな傾向が私もたくさんありますが、情報操作も非常に多くなっている現代では、自分で調べ考えることがとっても大切になっていると思うようになりました。

 時間が無い、やりたい事ですら我慢して止めているのだから、勿論関心や関連性のないことは切り捨てる。必要なことだけをやっていく。そんな風に現状の私は焦り、じたばたしているのですが、科学館の解説を読んでいるうちに、要らない情報なんて、ないのだと思うようになりました。
 以前、友達がずっとひとつのことを研究し続けていて、結局それは目指していた課題解決には直接つながらなかったと言った時、ずっと探究していたのに、報われないで終わるってどんな思いだろうと考えたことがありました。でも、「そうではないということがわかった。」と淡々と言った彼の言葉と研究の大切さが、ようやく理解できました。違っていた、解決には至らなかった、ということも、大切なデータであること。価値ある発見は、それらの違っていたという数々のデーターの蓄積を土台として出発しているということ。物事の進歩や発展の陰に、限りなくたくさんの失敗や、違う考え方からのアプローチがあり、それが求めているものへ近づく道を切り拓いていることなどが少しずつ理解できるようになりました。
 
 だから最近は、回ってきた冊子や新聞、チラシなどを、あまり関心がないと思ったものでも、さっとですが目を通すようにしています。それらは自分から決して手に取ろうとはしないだろうと思うものでも、時折、新しい世界に導いてくれるものが含まれていたりします。
 害虫のコンサルタント(㈱)サニーサニタ―が発行しているサニタ―ニュースでは、VOL587で、虫糞茶についてとりあげていました。京都府の「起業家アワード特別賞」に輝いたガの幼虫のフンからお茶を作るという異質なアイデアやコーヒーの「コピ・ルアク」など、「糞=不潔」という先入観を超えて、微生物の働きによる味覚の探求事例が紹介されていて読んで衝撃を受けました。虫自体がそんなに私は好きではなかったので、この会社から届くニュースは、知らなかったことをどんどん教えてくれる発見、感動に満ちています。そして、この微細物の働きによる、食物の循環したつながりは、自然科学館のお米を作ることに関する展示の中でも堆肥として取り上げられていて、「これと同じだ。」と頭の中で結びつきました。
 当たり前のことですが、見たいものだけ見ていたら、辿り着けなかった新しいものの見方です。

 清水園の書院には、さまざまな作品展や催しの御案内が置いてあります。もしかしたら、その中に皆さまを新たな感動の世界へと導くものが紛れているかもしれません。世の中に出ている情報は、発信者にとっては、発信する価値のある情報です。その価値はどこにあるのか、自分とどのような考え方の違いがあるのか。切り捨ててしまうのは一瞬だけど、その前に、学ぶべきものはないかを確かめるのは、大切なことなのではないかと考えるようになりました。衝動的で感覚重視の私の生き方を、今少し回りに目を向けるように変えようとしています。

 清水園/ひろ



# by hoppo_bunka | 2025-10-30 18:56 | 清水園 | Comments(0)

記憶に残る

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 秋の文化財特別公開があるということで、義母を連れて小千谷市にある西脇邸に見学に行ってきました。非公開の邸宅内に入ることができ、案内ガイドもあるということで、勉強のため最初は一人で行こうと思っていました。場所を調べてみると、そのすぐ近くに、亡くなった義父が子どもの頃、お坊さんになるために家を出て、住み込みで学校も行かせてもらったお寺があることがわかりました。当時、義父の家は兄弟も多く、とても義父を学校に行かせる余裕はなかったそうです。  
 これは義母も連れて見学とお寺にお参りもしてこようと思いました。

 お寺に伺っても、もはや高齢で亡くなった義父のことを知っていらっしゃる方は、もう残っていらっしゃらないだろうと思っていました。ちらっと本堂を覗いて、できたらお参りだけさせて頂いて帰ろうと思っていましたが、ちょうどご住職が他の方の法要を終えられたところだったので、向こうから話しかけてきて下さいました。
 「以前、亡くなった義父が大変お世話になったところだったので、一目見たいと思って参りました。」とお伝えすると、名前をお尋ねになったので申し上げると
「知っています。よく覚えています。家内も覚えています。」とおっしゃいました。ご住職がまだ小さかった時に、義父がお寺にいた時のことや、先代のご住職が亡くなられた時に、お葬式に参列した時のことなどを話してくださいました。喜んだのは、義母です。義父の若いころのお話を伺って、本当に嬉しそうで涙ぐんでいました。私も、亡くなった義父のことを覚えていてくださる方がいる、ということがこんなに嬉しいとは思いがけないことでした。

 義母は高齢ですので、きっと義父と二人でこのお寺に結婚の挨拶に伺ったりしたことはあったでしょうけれど、何一つ覚えてはいませんでした。そして、家に帰って来た時には、その日に行った所もご住職と話したことも、みんな忘れていました。ですが、「おじいちゃんがいたお寺に行って、おじいちゃんのことを覚えていてくださった方とお話をしたよ。」と言うと、「ああ、そうだった。お参りをしてきたか。志は置いてきたか。懐かしいなぁ。じいちゃんのことを覚えていてくれたか。」と再び涙ぐみます。

 その人がいなくなるって、その人のことを覚えている人がいなくなった時なんだと思いました。それはその人が生きた証で、亡くなった後でも、遺された人は、その人によってもたらされたものを、抱えながら生きていきます。義父の元気だった時の姿が次々と浮かんできました。
 それは人に限ることではありません。

 清水園には何回も来てくださるお客様が大勢いらっしゃいます。ありがたいことに、お客様の中に、清水園はちゃんと残っているのだなぁと思います。「また見にきたよ。」と言ってお入りになり、「また来るね。」と言ってお帰りになる。何気なく受け取っていたそれらのお言葉のありがたみに、ようやく今気づきます。

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 心に残る人。心に残る場所。亡くなった人も、訪れた場所も、自ら語ることはないけれど、思い出は雄弁。そして、人も場所も、最もその人、場所らしいものが心に残る。数多くの物事や年月の中で。
 怖いもの知らずで思うように生きていた義父の姿をご住職は覚えていらっしゃいました。家を出され知らない土地で暮らしても、義父は元気に自分の力で人生を切り拓いていったんだなと、嬉しくなりました。私は今、なかなか思うように事が進まず、四苦八苦しておりますが、いらっしゃるお客様と同じ様に、今日は静かなお庭に迎えられるご褒美をいただいています。園内は少しずつ色づき始めました。

清水園/ひろ
 



# by hoppo_bunka | 2025-10-14 14:54 | 清水園 | Comments(0)

言葉にできない

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 先日、本館で、視覚障害のあるお客様を御案内しました。弱視の方、全盲の方など、お一人お一人で見え方に違いはあったのですが、どうやって御案内をすれば、建物の様子やお庭の趣、展示品などをお伝えすることができるか、悩みました。残念ながら、触って頂けるものもあまりありません。お客様全体が、とっても明るい方がたで、楽しんでいらっしゃったのに救われましたが、いかに普段、物をきちんと見ていないかということを考えさせられました。

 建物の雰囲気は、大広間の縁側を一周された際に、感じ取られたり、柱の木目や床框の大きさなどは触って確かめることができたのかもしれません。吹き亘る風の中に、お庭の木々の葉の香を感じ取っていらっしゃったかもしれないし、滝の流れ落ちる音から、水の流れを想像されていたかもしれません。
 視覚以外の感覚を総動員されて鑑賞されていらっしゃるのですから、私が感じ取れないことをたくさん感じていらしたかもしれません。だからこそ、自分が見えてお客様には見えない美しさに関しては、こちらからお伝えしなければならないはずなのに、それをきちんとお伝えする言葉を私は持っていないことに気付きました。

 通しの丸桁は、「向こうの白い壁が先端で、こちらの白い壁が幹で30mある1本の杉の木です。」とお伝えしたあと、廊下をずっと歩いていただければ、その長さを想像していただくことはできますが、ケースに入った鍋島のお皿の美しさは言葉で表さなければ伝えられません。
 言葉を媒介にして、人は想像力で美しい物を味わうことができるのに、私にはそれをお伝えする力、言葉がありませんでした。

 先日新潟市美術館に「開館40周年記念 ほぼせんてんてん、」を見に行ってきました。そこで一番印象に残ったのは、担当した展示に付けられた学芸員さんのキャプションでした。どんな点に特徴や価値、見所があるのかを、それぞれの方が解説をされていましたが、それを読むと作品の価値と学芸員さんの作品への思い入れが伝わってきて、ものを言うことができない展示物や制作者の思いを代弁して伝えていると感じました。
 芸術作品は本来、言葉に表せないものを作品で表現するのだから、解説など行うことはできないのだ、という考えも、もちろんあるとは思います。作家の魂を削るように全身全霊を込めて造られた作品を表現するには、生半可な取り組みで選んだ言葉では本質に迫ることはできますまい。
 今朝の清水園の静謐な佇まいを、どうしたら目の見えないお客様にもお伝えすることができるだろう。本館の展示物も清水園の趣も、新潟市美術館の学芸員の方のように、価値の本質に迫る御案内ができる努力を続けていかなければと思いました。

 そんなことを思いながらも久しぶりに歩いた今朝の清水園のお庭は、私のあれこれと考え悩む心をどこかに連れ去っていってくれました。
『今日は死ぬのにもってこいの日』に書かれたアメリカインディアンの教えと言われる日は、きっとこんな日のことを言うのだろうな、と思う秋のひと日がありました。

清水園/ひろ

 

# by hoppo_bunka | 2025-09-27 17:21 | 清水園 | Comments(0)

箱舟に出会った高校生の夏

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 ハンディファンで暑さを凌ぎながら、顔を火照らせて、高校生のお客様が入園されました。他県からのお客様でした。若い方が入園料を払って見て下さると、嬉しくて応援したくなります。夏の終わりの最後の日曜日、しかもまだまだ灼熱の太陽が照り付ける中、お金を払って清水園を見に来てくださいました。
 600円だと、私が欲しいと思う物が3つは買えます。でも、清水園を選んでくださった。偉いなぁと思います。

 この方と同じ年の頃、私はお庭は年を取った人達が見に行く物、などと思っていて、全く関心がありませんでした。その時は、その時で、夢中になっていたものが他にあったのですから仕方のないことですが、もう少し早く庭園の美しさや文化財の価値に目覚めていたら、各地を旅行する際に、立ち寄る所がこれまでたくさんあっただろうにと残念に思います。
 ですから若い方がお出でになると、素晴らしい趣味を見つけられましたね、と羨ましいような気持ちになります。

『non・no』や『an・an』に載っている女子大生に憧れて、ファッションも生活も古くからの日本文化とは真逆の方向に目が向いていました。家もシャンデリアのある、出窓のある洋室。庭は色とりどりの花が咲き乱れる花壇に憧れていて、平屋で石庭など、問題外に思っていました。今はこんなに良いと思っているものの良さに全く気付きませんでした。
 デザイナーブランドへの興味は全くなくなり、今は着物に目が向いています。そして文化財を学ぶことによって、今は博物館の展示物に夢中です。博物館に展示されているものは、先人たちが宝として後世に伝えていきたいと願い守ってきたものですから。それらが遺されることになった、背景を学ぶことによって、その価値は一層深く味わうことができるようになります。誰かが、その価値に辿り着ける道筋を示してくれたから、今日来園された高校生のお客様は、この暑さの中を見に来て下さったのではないかと思いました。

 博物館は、現代の「ノアの箱舟」だと思います。後世に遺し伝えていくべきものをたくさん積み込んだ。
 若いお客様にもしお時間があるなら、次は来園のきっかけになったことを、ご迷惑でないようにしながらお尋ねしてみたいと思いました。

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 このお庭も、現代のノアが運んでくれました。


清水園/ひろ



 




 

# by hoppo_bunka | 2025-08-31 17:08 | 清水園 | Comments(0)

お迎えする

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 お盆が近づいてきました。皆さまのお宅は、さまざまな準備をなさいますか。我が家では、お仏壇やお墓参り、そして来客の準備を進めます。
親戚が泊まりに来るので、良い機会だと夫が1週間前から家中の押入れの大整理を始めました。来客用としてそれまで使っていたもの以外に、使わない布団が12組。夏用、冬用、それに伴うタオルケットや毛布など、ものすごい量が出てきました。今まで見なかったことにしていた、それらの物を、種類ごとに整理したので、これからは後片付けもすぐできます。押入れの次は、箪笥や戸袋など上下の収納の整理になりますが、まずはここまで。なんとか今日お客様を泊めることができるように整頓できました。

 嫁ぎ先の家は、とにかくお客様が大勢いらっしゃる家でした。義父が元気な頃は、お盆とお正月は大体3グループの方々が時間差で来られ、縁の下にはおかずの入った大鍋がいくつもあり、(それを義母は一人で全部作っていました)、お酒やビールもどれだけあるのだろうと思うくらい用意されていました。すごく忙しい家にお嫁に来てしまった、と最初は思いましたが、次第に慣れました。その他に佐渡からの親戚が来る、泊まるなどが度々あったので、あれだけの布団も必要だったのでしょう。

 迎える方は大変なのですが、迎えられる立場だと、親戚の家に泊まるのは、私にとっては楽しい思い出です。お盆に母の実家に泊まって、夜遅くまでいとこと遊んだことや祖父母に可愛がってもらったことなど、その家はもう無くなってしまったので、尚更懐かしく思い出されます。おばあちゃんの裁縫台を滑り台にして遊んだこと。つながったテーブルに並べられたご馳走。軒先でみんなでした花火。そしていただくお盆小遣いの嬉しさなど。
 自分の子どもたちも、きっと同じ思いでしょう。そしてそれは、次は孫へと続きます。

 大変な面も勿論ありますが、頼れる親戚同士の関係は、ありがたく味わって良いと考えるようになりました。母がいろいろなことができなくなってきているので、今までの様に実家にいくのは迷惑だろうと遠慮しようかとも考えましたが、お参りだけさっとして、母の顔を見て帰ってこようと思い直しました。実の子でもずっと居るのは疲れる、でもお盆ぐらい顔を見たいというのも本音だろうと思うからです。そして帰ってきている亡父にも顔を見せて元気だと伝えたいと思いました。迎え火を焚いて、送り火で見送る。亡き人が安心して帰ることができるように。親族のつながりを大切にする時間なのですから。

 昨日、子どもの頃、清水園に入って遊んだという方が何十年ぶりかに入るとおっしゃって入園されました。「こんなだったかな。よく覚えていないけれど。」と子どもの頃のことをお話されて帰っていかれました。年を取れば取るほど、懐かしいと思い出される場所は増えていきます。ここで、あんなことをした。その時、側にはあの人がいた。失われたはずなのに、蘇るその時。
 清水園は祖父母の家のように、思い出される場所でもあるのだなぁと思いました。紅葉シーズンになると「ああ、この紅葉。」と眺め、じっと見つめていらっしゃるお客様がいらっしゃいますが、その方の目には、思い出の紅葉を見た日の情景も重なって見えるのでしょう。

 ここに来ると大切な思い出に逢える。そんな風にお客様に思っていただけるように、お迎えしたいと思います。
1日中降りしきる雨の中、ご来園くださったお客様。ようこそお越しくださいました。お足元の悪い中をありがとうございました。

清水園/ひろ
  

 
 
 

# by hoppo_bunka | 2025-08-10 16:41 | 清水園 | Comments(0)