死者からのハガキが届いたことがあります。
大学時代に習っていたお茶の先生のご主人からのもので、お亡くなりになった後に親族の方に出すように依頼されていたものでした。
文面にはようやく思いが叶ってあの世に行けたこと、喜びでいっぱいであることと、長年の感謝が綴られていました。
それを受け取った時にこみ上げてきたのは、驚きと共に、怒りのような感情でした。ふざけるな!と思うと同時に涙がこぼれたのを覚えています。ずっと、「死にたい、早く○○のところに(亡くなられた奥様のところです)行きたい。それなのに死ぬことができない。」とお手紙をいただいていたので、お気持ちは十分理解しているつもりではありましたが、なんか悲しくて悔しくて、おめでとうございますとは思えなかったのです。あなたが亡くなって悲しむ人間もいるんです、と訴えたくなりました。
人が死ぬということは、大きな喪失感を与えることです。やるせない気持ちになりました。
お茶の先生には3年間習いました。でもお付き合いは卒業後も30年以上、先生が亡くなられた後も、ずっと続きました。
卒業して新潟に帰ることになり、最後に教室にご挨拶に伺った時に、お茶室で「先生、一期一会とは、本当にそうですね。」とお互いに涙してお別れをしました。お子さんがいらっしゃらない先生は、大変可愛がって下さり、お稽古の前にご飯を御馳走して下さったり、一緒に歌舞伎を見に連れて行って下さったり、本当にお世話になりました。
新潟に帰ってからは、お中元、お歳暮のご挨拶と年賀状を差し上げ、お手紙をいただく、といったことを続けていましたが、ある時、先生ではなくご主人からお手紙が届きました。
そこには、先生が認知症になられたこと、この先のことを考えて介護付きマンションに引っ越されたこと、最近はいろいろなことを忘れてしまったこと、先生のお具合があまり良くないことが書かれてありました。
これはお見舞いに伺わなければならないと上京しました。先生はご主人のことも、もうわかっていらっしゃらないということでしたが、一瞬昔の記憶が蘇られたのでしょうか。「よく来て下さいました。」とお会いするなり涙をこぼされました。それだけで、ほとんどお話はなさいませんでしたが、お別れする時に、涙を流され見送って下さいました。そしてそれが先生にお会いした最後となりました。
先生が亡くなられてからは、ずっとご主人との文通が続きました。新潟にいらしたこともありました。御案内をしている中で、「自分も年老いてもう間もなくであろうから、いろいろなことを整理していきたい、ご恩返しをしていきたい、あなたにも。」ということをお話なさいました。「何等かの形で、お送りするので、どうか、何も返すことなく受け取って役立ててほしい。」とおっしゃって、その数か月後に郵便為替が届きました。遺産の一部を差し上げたいとお手紙が添えられていました。
血縁的には全く赤の他人です。驚くと共に戸惑いました。
ご主人に最後にお会いしたのは、亡くなられる1か月ほど前でした。「手紙の文字ももう書く気力が無くなり、書くこともままならなくなり最後になると思います。」と震える文字でお手紙をいただいたので、急遽上京しました。かろうじて面会できましたが、お会いしている間もかろうじて意識を向けられているご様子で、目を合わせただけで、すぐまたうつらうつらと眠りに入られました。
そして届いた一枚の挨拶状で、ご主人の死を知りました。
清水園のお茶室や、見学先のお茶室に入ると、可愛がって下さった先生とご主人のことを思い出します。今は「習っていました。」などとは言えないくらい、お作法も忘れ、お茶の世界からは遠ざかってしまいましたが、思い出すたびに、しみじみとして涙が出そうになります。愛を込めて人をもてなす。その時間や空間の思い出は、何年経っても色褪せることはありません。
残念ながら、今月行われる予定でした新発田市民茶会は、中止となってしまいました。心を込めたおもてなしを享受できる機会が無くなってしまったことが、とても残念です。
一期一会のおもてなし、それを忘れずに生きていきたいな、とお庭の周りの茶室を見ながら思います。私と同じように、どんな忘れられない出会いやおもてなしが、ここで起きてきたのだろうと想像します。それこそ翠濤公の時代からずっと。
6月12日は庭園セミナーでお茶室が公開され見学することができます。受講された後で、相手を想い量ることの大切さや、どなたかを大切にしたいというお気持ちが、きっと深まるセミナーです。私はまだお元気で、お昼ご飯を運んで来て下さった優しい先生のお姿を思い出しました。
一期一会は一生。
清水園/ひろ