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友がみな我より偉く見ゆる日は

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 友がみな我より偉く見ゆる日は花を買ひ来て妻と親しむ   石川啄木

 本館の入館入口に、毎年ツバメが巣を作ります。親鳥が一生懸命餌を運ぶようすや、巣から顔を出してそれを待つヒナのようすが可愛らしく、成長の過程を見るのも毎日の楽しみになっていました。
 ところが今年は一羽だけ、どうしたことか飛べないツバメが出てしまいました。生まれつきなのか、それとも何かがきっかけで羽を動かせなくなったのか、トントンと跳ね翼を広げようとするのですが、飛び立つことができません。他のツバメたちが飛べるようになって、自由に空をかけ巡るようすを地面から見上げています。
 門の入り口のちょっと先で、動かないでいるのを見ると、何とかしてやりたい気持ちになります。お客様も気にかけて下さり、従業員の間でも、「今日はこのあたりまで跳ねて動いてきた。」とか、「猫やカラス、へびなどに襲われないとよいけれど。」など話題になっていました。
 そのうち旅立ちの日が近づいてきました。親、兄弟と一緒に行けるのか、それとも一人取り残されてしまうのか、とても心配になってきました。なんとか治って飛べるようになってほしいと願いながら、本館勤務の時は様子を尋ねていました。

 みんなと違って一人だけ飛ぶことのできないツバメは、他の方々と比べると、全く仕事ができない自分の姿と重なりました。私は昔から何でも飲み込むまでにとても時間がかかり、人より遅いからです。動作が身に着くまでには、他の人の倍以上時間がかかります。しかも継続して繰り返ししないと覚えることができません。速くしなくちゃと思うと焦り、ますますわからなくなってしまう。年を取った今でもそれは変わらず、他の人がすんなりとできることができない自分が哀しく思える時があります。啄木の歌の気持ちがよくわかります。

 比ぶれば見劣りのする植木鉢小さな哀しみある文化祭

 子どもが小学生の頃、文化祭で玄関に菊の鉢植えが展示されていました。たくさんある中に、見事に大きな花をつけているものもあれば、他のものと比べると、丈が半分しかなくひ弱なものもありました。どうしてもみんなのようになれないものに、目が向いてしまい、その子の気持ちを推し量ってしまいます。
 
『おおはくちょうのそら』(手島圭三郎)という絵本があります。
 病気で空を飛ぶことのできない子どものために、お父さんは北国に帰る時期を遅らせます。もうこれ以上は遅らせることができないと思った日、家族はその子を一人置いて北の空に旅立ちます。悲しい別れをした夜に、病気の子どものところに家族が戻ってきます。
安心した子どもは家族に見守られながらその晩静かに息を引き取ったのでした。
大急ぎで北に向かう家族の飛んでいく空に、死んだ子どもの姿が光輝く星となって夜空に浮かび上がってくるのでした。

 本館からツバメが旅たった日に、飛べない子どもの姿も見かけなくなりました。一緒に行けたのか、それとも何かに襲われて死んでしまったのか、誰にもわかりませんでした。自然界で自由に動けないものが生き延びていくのはとても難しいことです。それは人間も含めて全ての生き物に共通していえることです。だから悪い予想の方が妥当なのかもしれません。その日の夜空にも星が輝いていました。

 一時ではありましたが、情が移ったものとの別れは哀しい。でも、哀しみだけではありませんでした。動けなくても、動けないなりに懸命に生きている姿は、心打つ尊い姿でした。できなくても、だめでも、一生懸命生きることは尊い。
 褒めるべきものは、先天的に備わっている能力ではなく、生きていく中で獲得していく力であると思います。

 君に比べたら、一生懸命さが足りないね。私も無いものに目を向けるのではなくて、得ようとするものに目を向けなくては。

 世界最高峰のサッカー選手であるメッシは、「努力すれば報われる?そうじゃないだろ。報われるまで努力するんだ。」と言っています。
 友がみな我より偉く見ゆる日は、私は空を見よう、そう決めました。

 傷口に星空秘めし石榴かな

清水園/ひろ


# by hoppo_bunka | 2022-09-18 17:19 | 清水園 | Comments(0)

映画「峠」最後のサムライ と 吉ヶ平(よしがひら)民家

この夏は、映画「峠」ロケ地のひとつとして、「峠」ファンの多くのお客様にご来館いただくことができました。実はロケ地としてだけでなく、もう一つゆかりのある建物が当館に。移築古民家のひとつ「吉ヶ平民家」がその建物です。

北越戊辰戦争時、1868年(慶応4年)5月の長岡城陥落、同7月の再落城の際、長岡から会津への敗走路となった8里(32キロ)の峠道。実際より10倍もの「八十里越え」と名付けられたのはその険しさゆえとも言われます。福島県只見町叶津までをつなぐこの「八十里越え」の越後側の起点となる地域が吉ヶ平(三条市下田)。当館に建つ吉ヶ平民家のふるさとです。

「八十里越え」は、江戸期より奥会津と中越後を結ぶ生活路として、塩、金物、魚類、などの生活物資や人々が往来し、山村の吉ヶ平は物流拠点の宿場町として大いに賑わい、発展しました。

その後幕藩体制が一新し、助郷が廃止されるなど道路の維持が困難となるなか、新潟・福島両県からの生活路再建運動によって1894(明治27年)新八十里越として県道が編入されますが、1914年(大正3年)には福島県郡山と新潟県新津を結ぶ、岩越鉄道(のちの磐越西線)が開通するなど、また薪炭からの燃料革命が進むなどの時代に沿って峠道は役目を終えます。

かつて八十里越えの宿場町として栄えた吉ヶ平も、高度経済成長が進むにつれて山村生活は不便さを増していき、ついに1970年(昭和45年)、残った19戸が集団離村を決心、積雪期前の11月に吉ヶ平は閉村されました。

その際、縁あって当館に寄贈・移築された吉ヶ平民家は、築200年程の椿和三郎氏の茅葺き木造家屋で石置き屋根の馬屋も備え、室内には囲炉裏や神棚も残ります。多くの住宅は取り壊され集落に家屋は残らなかったため、吉ヶ平の暮らしぶりを伺い知る貴重な民俗資料の一つとなりました。

今夏は、北方文化博物館の吉ヶ平民家から、八十里越えを通り会津を目指して、只見町塩沢で亡くなった河井継之助の無念の境地に想いを寄せる夏となりました。

参考 

新潟日報2022719日、712日 

越佐ふるさと峠みち2526 「八十里越」上、下(関田雅弘)


映画「峠」最後のサムライ と 吉ヶ平(よしがひら)民家_e0135219_12461968.jpg
吉ヶ平民家
(北方文化博物館)
2022.7.28撮影


# by hoppo_bunka | 2022-09-10 12:49 | 本館の展示案内 | Comments(0)

特別な場所

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 お茶室が公開されていたので、桐庵を見に走りました。
普段は外側をさっと通り過ぎる桐庵ですが、開け放たれていると佇まいがまるで違ってきます。特別な空間が広がっていて、そこにいるだけで十分だと感じます。お軸やお花、お茶が無くても。
 外界から遮断された、ほとんど無の中に身を置く場所なのですから、物はなくても構わないのかもしれません。心を静かに浸らせる空間さえあれば。
 ここは大切に自分をもてなしてくれる場所。心を込めて準備をし、慮ってくれる場所。そう想像するだけで、幸せになれます。大切に扱われることは、誰もが願うことで、たとえそれがわずかな時間であっても、ずっと心を温め続けてくれるものだと思います。

 8月28日に、水害で被災した関川村のボランティアに行って来ました。それより前に行ったきた夫に、「泥出しだけは腰がやられるから、俺でもきつかった、違うことをしてこいよ。」と言われ、泥掃除という作業を他の方と一緒にしてきました。
 中越沖地震の時も、阿賀野川や五十嵐川の水害の時も、東日本大震災の時も、泥まみれになった場所の片付けや掃除をしましたが、どこも同じです。拭いても拭いても、洗っても洗っても、しばらくすると泥がにじみ出てきて、きれいになったと思っても、また拭かなくてはならない、の繰り返しです。そして家の側には使えなくなった家財道具と泥を入れた袋の山。
 ゴミに化した物は、大切にしていた思い出の物であったり、愛着のあったものであったり、お家の方の無念さ、悲しみを思うと心が痛みました。
 自分の力ではどうにもならないものに、人生を翻弄されることもあるのだな、と災害が起きた時にいつも思います。
そんな時、全ての苦しみを覆うことはできないとしても、自分は大切に扱われている、と感じることができることは、絶対必要なことだと思います。
 私は非力で、他の屈強な若い方がたと比べると、できることなんてほとんどないに近いけれど、それでも何かやれることがあって、自分のものを大切にされていると感じてくださることができるように、作業をしたいと思いました。明日は県のバスで村上市に行ってきます。
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 この空間、この場所が自分を大切に迎えてくれる。そういう場所が人には、生物にはきっと絶対に必要で、それは年に数回しか訪れることのない所でも構わない。高い山の頂でも海が開けた道の上でも。そしてこの清水園の中でも。

 お茶室からいただいた幸せな気持ちを、少しでも他の方々にお届けできるように、自分にできる精一杯のことをしてきたいと思います。

清水園/ひろ
 
 



# by hoppo_bunka | 2022-09-03 17:12 | 清水園 | Comments(0)

美しきものは

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 先日お誘いをいただいて、自然科学館のプラネタリウムに久しぶりに行ってきました。子どもたちが小学生の頃以来ですから、本当に久しぶりです。大人でも十分楽しめる所だったのだと、改めて感じられる、とっても楽しく素敵な時間を過ごしてきました。
 「ハナビリウム」という9月16日まで投映される番組は、400年以上にわたる花火の歴史を伝えるものです。見どころは、花火師以外は決して入ることのできない、花火の真下からの360度実写映像で、頭上から花火が降りかかって来る、そんな体験を味わえます。
 私は、「ハナビリウム」については全く知らなかったのですが、人気があるようで、来場時間前に多くの人が並んでいました。

 場内は自由席なので、並んでいる人数を見て、良い所が取れなかったらどうしよう、と焦ったのですが、席に座って天井を眺めると、それは杞憂でした。
コンサート会場などとは違って、どの席からも星空を満喫できるようになっていました。というより、星空というもの自体が、そういうものでした。

 満天に輝く星を見ながら、みんな平等っていいなぁ、美しいものって、みんなに平等にあるんだなぁ、としみじみ思いました。
夕暮れに稜線や日本海に沈む夕日も、朝焼けに染まり行く空も、みんなに平等に与えられる美しさって、本当に良いなぁと思いました。

 北方文化博物館を創設した七代伊藤文吉がアメリカ留学時代に学んだことは、「美しきものは自らの私財で求め、心の糧として鑑賞し、いずれ時期を見て社会に還元し、一般に公開すべきものである。」ということでした。そして、「価値ある美術品は、個人だけの愛蔵品であってはならない。」これが理想でした。

 もともと豊かになるって、そういうことなのかもしれません。自分という枠組みを取り払うことによって、他の大いなるものがなだれこんでくる。自分を無にすることによって、他と我の境目はなくなり、我はどんどん拡がり続け、無尽蔵となっていく。

 プラネタリウムでは、もう一つ、土星の輪が、一億年後に消失するというNASAの研究成果についても初めて知りました。
天体望遠鏡で初めて土星の輪を見た時の喜びは、今でも失せることはありません。小さな、小さな、でも、はっきり、それが土星だとわかる、あの輪。それが見られなくなる時代が来るなんて。今見えるものの価値を思い知らされた瞬間でした。それは永遠ではない。

 軒先に咲いている美しい朝顔が、その輝きを一日で命を終えるように、星にも命があり、姿を変えていく。この宇宙にぽっかり浮いている地球だって同じ。みんなが、宇宙空間に出たら生きていけない運命共同体なのに、それなのに、爆弾を落としたり、環境を汚染したり、中から破壊を続けている。土星の輪のように、やがては失われてしまうものがあるとしても、そうなる前に人類が消失を引き起こすようなことをしでかす気がして、恐ろしくなります。もはや手遅れとなっているのではないかと。この美しい星を後世に伝えることができなくなるのではないかと。

 美しい星空を見て、感動していたのに、急に不安に襲われるなんて、それはやはり、世の中が安定していないからだと、嘆かわしく思った時、五味太郎さんのこんな言葉が飛び込んできました。
 「生きているうちは、不安定なのが面白い。明日が完璧だって分かっているなら、俺は起きなくなる。」

 ああ、困難な状況にあっても、知恵を絞って絞って寄せ合って、抗って生きてきた人がいたから、人類は少しずつ進歩をしてきたのだ。
そう思えて、少し元気を与えられた気がしました。

 今生きているこの毎日も、文化遺産としての清水園の美しさも、永遠ではない。守り抜く努力を続けなければ。人と知恵を出し合って、地球とつながって、生きていきたいです。

清水園/ひろ
 
 

# by hoppo_bunka | 2022-08-25 17:10 | 清水園 | Comments(0)

つないでいく 次の世代へ

 六代目伊藤文吉がデザインした「文つなぎ紋」
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 一続きの「文」の文字のデザインには、自分の名前に対する誇りと、祖先を敬い子孫の繁栄を願う気持ちが込められています。
それと同時に、伝統の重みの中に、新たに価値あるものを生み出していこうとする気概も感じられます。
 日本の伝統文化を後世に繋ぐ目的で運営している北方文化博物館の理念が、ここにも表れています。
その思いは、今では藍染マスクに受け継がれました。北方文化博物館と清水園で限定販売されています。
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 お盆、そして終戦の日を迎えました。自分につながる多くの方々に思いを馳せる日です。懸命に生きて命を繋いでくださったことへの感謝と、砲弾に怯えることなく、飢餓に苦しむことなく暮らしていける幸せをかみしめたいと思います。
 終戦の日に関してということで、神田館長の戦争体験のお話がラジオ放送されました。B29が横越村の畑に墜落したこと、村の人たちが墜落死した敵兵を弔ったこと、敵兵にノコギリを持って向かって行った女の人がいたこと、ずっと後になってから、捕虜になった方のお嬢さんが横越村を訪れてきたこと、当時の暮らしの様子など、決してこんなことは経験したくはない、と思いながらも、館長が冊子にまとめられたように、後世にどうしても伝えて行かなければならないことなのだと感じました。

 大切な人と一緒に生きていられる幸せな時間は、永遠ではない。だからどんなに世の中が悲惨な状況であっても、生きている間に、少しでも自分の後に生きていくものたちが、幸せに生きていくことができるように願い、力を尽くす。今より少しでも、世の中が良くなるように。苦しい時代であっても、ずっと私たちはそのような先に生きてきた方の恩を送られてきました。そのありがたさがわかるから、次の世代に、その恩を同じように受け渡そうと努めるのだと思います。
 
 そうした心のつながりは、肉親や知人だけでなく、もっと広いつながりにまでも思いを馳せることができるようになると、世の中はもっともっと良くなっていくと思います。

 先日、病気や障害があっても参加できる旅の企画をする旅行社がテレビで放映されていました。下半身麻痺の方が海水浴を楽しむというもので、車椅子が入れない浜辺の移動手段や海に入る手段を、多くの人がアイディアを出し、援助しあって、その方の夢の実現に努めていました。自分ひとりでは限界とあきらめてしまうことも、多くの人がつながって可能性を探っていくと、限界がなくなり夢が叶うというものでした。海に入れたその方はもちろんのこと、関わった人たちみんなが深い喜びに満たされた旅行でした。夢が叶ったその方は、これからもっと、あれもしたい、これもしたいと、どんどんやりたい事や気力が湧いてきたと、本当に嬉しそうでした。見ていた私まで、幸せになりました。
 つながることによって生まれた幸せは、関わった一人一人に伝わって、そこからさらに網目の様に広がっていきます。みんなが人の幸せを自分のことのように嬉しく感じて生きていったら、世の中はどんどん良くなっていくと思うのです。

 伊藤家には、「悪田を買い集め、美田にして小作に返すべし」という家訓がありました。命の尊さを考える今日、どうしても伝えたいことを、言葉で、行動で、私も示していきたいと思います。 

清水園/ひろ

 
 







































# by hoppo_bunka | 2022-08-15 16:21 | 清水園 | Comments(0)